男は囲炉裏の前で呆然と座ったまま、戸口から歩いて来る女を注視していた。その歩幅はひどく小さく、牛歩の歩みと形容しても過言ではない。
清の国には、纏足(てんそく)と云う文化があるらしい。幼児期より、足の指を折るように布を巻くと、成年に達するといたく小さな足となる。必然的に歩行困難になり、そこに弱々しい魅力を感じるらしいが、成程、百聞は一見に如かず。男の目には、女の歩き方が高貴かつ神秘的に思えた。さながら、水面に浮かぶ蓮の葉を歩く仙女のように、或いは氷上を滑るかのような。
女が男の右隣で跪く。
「我が家にお越しいただき、ありがとうござりんす」
言って、女が平伏する。
「あぁ……」
男は胡坐をかいたまま、微かに頷いた。これほど美しい女を、間近で見下ろすのは、生まれて初めてであった。
「お腹が空きんしたよね。今、鍋を取り分けんすので、少々お待ちおくんなんしえ」
言いながら女が頭を上げる。これ程顔と顔が近いと言うのに、絹のような銀髪に隠れた女の顔は、深い影に覆われて見えない。赤黒い瞳が、鈍く光るのみ。幽霊のように不気味にも思えたし……屏障に映る女体の影のようにも思えて、情欲を煽られもした。
そうして女はやおらに立ち上がり、男の視界から消えていった。俯き、混乱している男には、彼女を目で追う余裕はない。
(この女、仙女か、幽霊か……)
恐怖すべきか、愉悦すべきか。理性は脱兎の勢いで逃げるべしと命ずるが、本能は鍋料理と女の魅力に抗えない。そもそも、山小屋の外は闇夜の猛吹雪であるからして、やはり理性で考えても逃げるべきではない。
「はい、どうぞ。召し上がっておくんなんし」
その厚みのある声で、男は我に返った。囲炉裏を正面として、右を向いて俯いていた男は、所謂左から呼び掛けられた。男が振り返ると、女は両掌を床に付き、座ったまま頭を下げていた。床に置かれているのは、お椀に取り分けられた椎茸や山菜、そして温もりのある汁。お椀の上には、箸も置かれている。
「……どうも」
男はそれだけ言うと、半ば夢遊病のように両手を伸ばした。右手で箸を持ち、左手でお椀を持ち、無我夢中で椎茸を頬張り、汁を飲み込む。
「美味い」
それだけ呟いた男は、飢えた虎もかくやと瞬時に平らげた。すっからかんな胃袋には、並ぶもののない快楽であった。
「おかわりはいかがでありんすか」
座して待機していた女は、男に顔を近づけながら尋ねる。未だに顔が影に覆われ表情が読めないが、その声色は慈悲深い。
「あぁ、頼む」
男はすかさず、空になったお椀を女に取らせた。女は鍋から取り分ける。男は愉悦していた。仙女と思わしき者が、自らの言葉一つに従い、働いている。思えば、後宮の女を侍らせる将軍とは、日夜この愉悦に浸っているのやも知れぬ。
「どうぞ。心ゆくまで」
そうして二杯目を差し出し、男は瞬く間に食らい尽くす。三杯、四杯と女に取り分けさせ、五杯から先は数えていない。結局男は、鍋の全てを胃袋に流し込んだのであった。
「ふぅ」
満腹となった男は、糸が切れたように仰向けに倒れた。
「お粗末様でした」
女が上から、男の至福に満ちた顔を覗き込む。膨れ上がった男の腹を、愛おしそうに撫でながら。満たされたことで、ひどい睡魔に襲われている男は、半目のまま頷くばかり。見上げる女の黒い顔には、妖艶な笑みが浮かんでいるように思えた。男は無意識に、女の顔に手を伸ばす。
へっくしょい。ここで男がくしゃみを一つ。伸ばしていた手を思わず引っ込める。
「あら。風邪でもひいたのでありんすか」
女も愛撫する手を戻すと、正座する膝の上に両手を置いた。思えば男は、冬山には似つかわしくない軽装であった。分厚い部屋着としての褞袍(どてら)は勿論、外着の合羽や半纏(はんてん)さえ無かった。
「生憎ここには褞袍がありんせん。時間は掛かりんすが、わっちが仕立てて差し上げんす」
と、女が願っても無いことを申し出た。
「主さんはここで眠っておくんなんし。囲炉裏の傍の方が、暖こうござりんす」
言いながら女は立ち上がり、障子の方に歩いて行った。たどたどしく、ある種優雅な歩き方で。今にも瞼を閉じてしまいそうな男は、縋るように女を目で追う。
そうして女が障子を静かに開き、奥の部屋に足を踏み入れる。灯りの無い奥の部屋の様子は、よく分からなかった。女が振り返り、障子を閉じようとする寸前。
「決して中を覗いてはいけんせん。主さん」
それだけ言い残すと、はたんと障子が閉じられた。男の意識も、そこでふつりと途切れた。
◆ ◆ ◆
次に目覚めたとき、男は布団の上で仰向けになっていた。どうやら女が囲炉裏の傍に布団を敷き、爆睡していた男をその上に寝かせたらしい。
「おはようございます。さあ、朝食はできてやす」
円形の木板にて正座する女は、箸で鍋の中を突っつきながら、男と目を合わせずに言った。物音で気が付いたのだろうか。それにしても、もう朝飯時か。疲労困憊だと、一晩の眠りが刹那となる。
「主さんは風邪ですから、ご養生なさっておくんなんし」
女は箸とお椀を持って、男の枕元で正座した。今朝の食事は山菜の雑炊だ。女が箸を持ち、男の口に雑炊を運び、食べさせる。実際、命の安全が保証された男は、気が抜けて身体をまともに動かせなかった。風邪どころか、何か他の病をこじらせてしまったかも知れない。
だから男は、厠に( かわや )行く他はずっと布団で寝て過ごした。食事は女が食べさせてくれる。女は日中、食材やら褞袍の素材やらを調達しに外出する。男はどうせ帰る道も分からないし、その上風邪で不調ときたもんだ。寝て過ごす分にはまんざらではない。あの仙女を自分が侍らせていると思えば、尚のこと。
その夜も、その次の朝も、そのまた次の日も、男は女に介抱され続けるのであった。
◆ ◆ ◆
男と女が出逢ってから、七日目の晩のこと。
七日間も世話された結果、男の身体はおおよそ快復していた。精神はと云うと、献身的で妖美な女と過ごしたことで、むしろ非常に昂っていた。何か不幸に遭って、生気もなく雪山を彷徨っていたとは思えぬ多幸感。
いつものように、女は昼過ぎに山小屋に帰り、囲炉裏の鍋で食事を作る。夕食はふきのとうの味噌汁だった。どうやら春が近いらしい。
男に食事を食べさせ終えた女は、雪解け水で食器を洗うと、早くも明日の朝食の支度を始めた。
「今日は格別な食物を採ってきんした。主さんもきっと喜ぶでありんしょう。じっくり出汁を取り、明日の朝に差し上げんす」
正座する女は、鍋に具材を入れる。乱切りにされた、極彩色に輝く野菜らしき物だ。毒やも知れぬ、と疑う思考は男にはない。輝く金銀がそうであるように、輝く野菜ならば天上の味に違いなかろう。
「褞袍はじきに完成しんすえ」
女は言ってから立ち上がり、男に背を見せた。今夜も奥の部屋で、男の為に褞袍を仕立てるらしい。障子に向かって進む女は、相変わらずひどく小さい歩幅だった。
――食欲が満たされ、睡眠欲が満たされると、異なる欲求も熱を帯びるもの。昨日までは、障子の向こう側にいる女を追う気力はなかったが、今は違う。
思うに纏足とは、貴族の女房の姦通を防ぐ為の風習ではないだろうか。赤ん坊のよちよち歩きのように、まともな移動ができない女には、隠れて家を出て、見知らぬ男と会うのも難しいだろう。主人から逃げ果せるかは、言うに及ばず。
無防備な背中を晒し、牛歩の歩みで進む女は、あからさまに男を誘っている。少なくとも、男はそう感じている。ましてや雪山の真っ只中にある山小屋。ただ一人居る女を、己がものにしない道理などない。
女が奥の部屋に入ると、振り返って障子に手を掛ける。言うまでもなく深い影に覆われた顔だが、僅かに認められる瞳の光が、一層強く光った。はたん、と障子が閉められ、ややあって機織りの動く音が聞こえ始める。
男は布団から出た。厠以外で布団から出たのは、この七日間で初めてだ。身体は軽かった。
音を立てぬよう、障子に近付いていく。忍び足であっても、女の牛歩よりは遥かに速い。カタ、カタと、機織りの音が鳴るたびに、男の心臓も同調して高鳴る。
男の手が障子に触れる。鶴の氷を溶かした時のような、痺れる快楽が全身に走った。にわかに女に言われた言葉を思い出す。「決して中を覗いてはいけんせん」と。男はそれを、浅はかにも都合良く解釈した。女は、恥じらうから、覗いて欲しくないのだと。
静かに、片目で覗き込めるだけ障子を開いた。上質な大吟醸を飲み干したように、男は恍惚としていた。
男は部屋の内部を初めて見る。畳があり、機織があり、女は機織の前で正座している。褞袍は見当たらない。何の変哲もない部屋だ。
唯一つ不可解なのは、部屋の中を薄い赤と薄い青の光が飛び回っている点である。通常より一回りも二回りも大きく、そして珍しい色の蛍の番のようにも見えた。否、人魂かも知れぬ……。
男が呆然と眺めていると、突如女が機織を動かす手を止める。直後、男を視線で突き刺すと、女の全身が蒼白く発光した。
「見んしたね」