若い男は雪山を彷徨う。生気もなく、あてもなく。
冷たく鋭利な吹雪が絶え間なく吹き付け、顔面や手の甲を責め苛む。糒(ほしいい)もなく、合羽もなく、唯一持ち合わせた命は風前の灯火。
半死半生の男には、色の識別ができない。吹雪の音さえ聞こえない。木々の輪郭だけが、墨絵のように視界に映っている。
男は恐らく、この世に絶望したのだろう。よって自ら、この雪山に身を投じたのだろう。
しかし、男の身体は、男の精神が卑下していた以上にはしぶとかった。あまりの寒さで、皮や肉が破れる紅蓮地獄で、すぐに楽になるだろうと踏んだものだが。実際の所雪女は、男をじわじわと虐め抜いて愉悦に浸っているらしい。
嗚呼、いっそ潔く腹を掻っ切る肝っ玉さえあれば。俺は、千日も木の実を喰い続けた末に、即身仏として果てる気は微塵もない。脚よ、俺の億病心の代わりに、さっさと凍てついてしまえ。死に様さえ満足に選べない半端者に、情けをかけたまえ。
ふいに男が立ち止まる。暗黒鎮静の中で、確かな白色を見出した。雪結晶よりも燦々と輝く物体。
男は着物の裾で、睫毛に付着した雪を拭う。注視すると、その純白は長く幅広の両翼を伸ばしていた。頭頂部は紅色に染まり、長い嘴は黄金色をしている。
「……鶴、か」
男は思わず呟いた。鶴がうつ伏せに倒れている。鶴の身体が微かに上下に揺れているのを見るに、まだ息はあるようだ。
その脚に目を奪われる。頭頂部の紅よりも色鮮やかな、珊瑚珠色をした鶴の脚。いや、嘴と同じような黄金色だろうか。とにかく、か細くも、人間の脚よりも遥かに血色が良いように感じる。花魁が身に纏う打掛の裾のように艶やかであった。
趾、つまり人間ならばくるぶしより下の部分が、灰色の結晶に覆われていた。氷に囚われて、飛び立てずにいる。男と同じように、凍死するのは時間の問題であった。
「なんと妖艶な……」
幻に囚われたように、男は我知らず両手を伸ばした。その脚が暖かな炎のように錯覚したのか、抱き寄せて頼りない体温を奪おうと企んだのか。或いは火起こしの道具が無いのも忘れ、取って食うつもりでいたのか。何れにせよ、まずは男自身の体温によって、鶴の脚を覆う氷を溶かす必要がある。
……ジュウ。肌と氷が触れた刹那、掌が焦げるような感覚を覚えた。抉られるような痛みは皆無で、むしろ火傷のように痺れる痛みに近く、それこそが快楽。尚も男は一心不乱で、氷に掴み掛かっている。
これで少しは、男の寿命の蠟燭も縮まるだろう。僅かばかりの温かみさえ享受できる。やっと果てることができる。心地よい眠気、そして解き放たれるような安堵が、瞑目する男の頭を埋め尽くしていた。
コーッ。コーッ。
やがて雪山に木霊した鶴の一声。雄鶴のような勇ましさだが、どこか憂える雌鶴のような。男は我に帰り、目を見開いた。雪山の、黒を滲ませた積雪を思い出す。地の果てで唸りを上げる、吹雪の音を思い出す。
掴んでいた氷は、跡形もなく溶けていた。それどころか、硝子細工のように美しい鶴までもが溶けつつある。飛び立つこと叶わず、その身体を欠損させることなく、幽霊のように消え去ってしまった。
「今のは……」
男は呆然と立ち尽くす。掌の灼け付いた感覚からして、決して幻ではなかったと信じたい。やがて、己の身体が激しく震えていることに気が付く。不可思議な炎に触れた男は、今一度、雪山や死への恐怖を思い出す。
忽ち半狂乱となった男が周囲を見渡した。山小屋を見つけるまでに、五秒も要さなかった。鉛色の曇天の下、山小屋の障子から透けて見える灯りは、なんと神々しいものか。開かれた戸口には提灯が付けられていて、おもてなしの心遣いを見せていた。遭難者、より具体的に言えば男を歓迎する為に。
男は、気力を振り絞って山小屋に向う。凍え切った身体は思うように動かせず、眩暈を起こして視界が激しく揺れる。酔っ払いのような千鳥足で、何度も前のめりに倒れそうになりながらも。男は辛うじて山小屋の戸口に入ったのであった。
◆ ◆ ◆
吹雪の音が消えた。囲炉裏で木々が爆ぜる音が、しとやかに。人の気配はない。声を張り上げて挨拶する気力も、男にはない。
男は吸い寄せられるように歩き、囲炉裏の前、円形の木板の上で胡坐をかいた。揺らめく炎に両手を近づけると、正しく蘇ったかのような心地であった。
もはや空き巣と思われても構わない。こちとら、生きるか死ぬかの瀬戸際だ。どの道、死を望みながら生にも執着している、ろくでなしだ。
囲炉裏の上に吊るされた鍋からは、芳醇な椎茸の香りがする。木蓋を持ち上げると、湯気が一気に立ち昇り、男の顔を火照らせる。やはり椎茸と、それから多種多様な山菜が煮られていた。途端に男の腹が鳴る。
男は我慢ができず、素手で椎茸を摘まもうとした。が、指先が触れると「熱っ」と漏らし、手を引っ込める。流石に熱すぎた。箸や皿が必要だ。
ここで男は初めて、山小屋の内部を見回した。自身が入って来た戸口は、いつの間にか戸が閉められていた。閉めた記憶がないが、無意識にやっていたのだろうか。
部屋には囲炉裏以外は何も無いに等しい。男が座るものも含め、囲炉裏の傍に円の木板が二枚と、壁には大小の草履が一足ずつ。
「鍋があって、箸が無い筈なかろう」
苛立った男は立ち上がり、木の床を重々しく軋ませること数歩。障子の向こうで住人がいる可能性も考慮せず、囲炉裏の間と奥の部屋とを隔てる障子に手を掛けた。
その直後だった。戸口の扉を叩く音が聞こえたのは。
「おじゃましんす」
言って、戸口を開いて入ってきた者は、濃紅の着物を着た女性であった。絹のような銀髪は肩まで伸び、その影に隠れて顔色はよく伺えなかった。